新人デザイナーの可能性をひらく書籍対談(3)『わかりやすさの罪』編

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    髙橋咲デザイナー

コンセントの代表取締役社長の長谷川敦士と新卒1年目社員が1冊の本をテーマに対談。本から得られた気付きを通して、それぞれのデザイン観やデザインへの思いを語り合います。

写真:高橋と長谷川が机を面して笑顔で並んでいる様子

髙橋咲(写真左)
デザイナー

千葉大学大学院融合理工学府創成工学専攻デザインコース博士前期課程卒業。在学中はサービスデザインを中心に、プロダクトデザイン、UIデザインなどデジタル・フィジカル両面から「モノ」のデザインを学ぶ。2022年、コンセントに新卒入社。主にサービスのUX設計やアプリケーションのUI設計に携わる。

長谷川敦士(写真右)
代表取締役社長/インフォメーションアーキテクト

東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了(学術博士)。「わかりやすさのデザイン」であるインフォメーションアーキテクチャ分野の第一人者。2002年に株式会社コンセントを設立。企業ウェブサイトの設計やサービス開発などを通じて、デザインの社会活用、デザイン自体の可能性の探索を行っている。

書籍紹介

『わかりやすさの罪』武田砂鉄著|2020年7月刊行|朝日新聞出版
写真:「わかりやすさの罪」の書籍の写真。

“わかりやすさ”の妄信、あるいは猛進が、私たちの社会にどのような影響を及ぼしているのだろうか。「すぐにわかる!」に頼り続けるメディア、ノウハウを一瞬で伝えたがるビジネス書、「4回泣ける映画」で4回泣く人たち……。「どっち?」との問いに「どっちでもねーよ!」と答えたくなる機会があまりにも多い日々。私たちはいつだって、どっちでもないはず。納得と共感に溺れる社会で、与えられた選択肢を疑うための一冊。

出典元:朝日新聞出版「最新刊行物:書籍:わかりやすさの罪」
「わかりやすさの罪」オフィシャルページ(閲覧日:2023年2月28日)

1. ずっと感じていた「わかりやすさ」への違和感

長谷川:『わかりやすさの罪』は、「わかりやすい」を善とする風潮に疑問を呈する本でしたね。髙橋さんは、この本を読んでどう思いましたか?

髙橋:読み進めながら自然と筆者に共感していました。私たちは日常的に「わかりやすさ」を求めたり、求められたりしながら生活していますよね。「これ、わかりにくいな」と感じたものには不満を抱くし、「もっとわかりやすく話してよ」と言われることもよくあります。そんな中で、私は以前から「わかりやすさ」に対し、どこか違和感を感じていたように思います。

長谷川:なるほど、違和感は感じていたと。

髙橋:はい。ただ、普通に考えれば、労力を費やさずとも簡単に理解できることは良いことですよね。なぜ違和感を感じるのだろう、この違和感は何なのだろう、と自分でも不思議でした。

長谷川:うんうん。

髙橋:ただ一方で、その違和感の正体を考えることは生産的でないとも思っていました。「わかりやすいことは善か?」を気にしても、その答えはわからなかったし、そこから何かが生まれるわけでもありません。なので、どこか見て見ぬふりをしていました。

長谷川:その「違和感にはっきりとした正解が出せない」ということが、まさにこの本の筆者が言いたいことと重なってきますよね。

髙橋:確かにそうですね。この本はそんな違和感にじっくりと向き合っているところが新鮮で、「こんなことを堂々と気にしてよいのか」と、痛快な気持ちになりました。だから私もこれまで見て見ぬふりをしていた違和感……。つまり、わからなくて放置していた物事に、あらためて向き合うきっかけにしたいと思って、今日の対談を楽しみにしていました。

写真:笑顔の髙橋

2. 単純化の過程で「捨てられたもの」がある

長谷川:コンセントはエディトリアルデザインや情報アーキテクチャなど、物事を「わかりやすく」する仕事からスタートしています。この本を読んだ上で、それは果たして良いことなのか、どう思うでしょうか?それを聞きたいと思っていました。

髙橋:難しいですね(笑)私は、基本的にはわかりやすいことは良いことだと思っています。実体験を振り返っても、スムーズに理解できた方が生産的ですし、その物事に親しみも湧きますよね。理解できないものは、そもそも気にも留めないですし……。ただ、簡単に、すぐに理解できてしまうのも、何だか怖いと思ってしまって。

長谷川:怖い、というと?

髙橋:わかりやすくするためには、情報を取捨選択したり、単純化するじゃないですか。例えば、メディアの政治コーナーで「政府は来年度XXXXという法案の可決を目指しています。あなたはこれに賛成ですか?反対ですか?」という説明が、周辺情報をまとめた図とともに紹介されたとします。でも、その背景には、そこには登場していない無数の事実や複雑な事情がありますよね。

長谷川:確かに、「表層化されて伝えられた内容」がその物事の全てではないよね。

髙橋:はい。そして、どの事実をどのように切り取って伝えるかは、伝える側の立場や媒体の方向性、視聴者層などによって変わりますよね。そんなふうに選び抜かれて、味付けをされた情報は、決して間違ってはいないでしょうが、「正しい」のでしょうか?

長谷川:そうだね。ちょっと言葉にしてみると、それは「正しい」とは違う気がしない?今髙橋さんが言ったように、簡単に何かを正しく伝えることなんて、本当はできるわけないじゃない。僕は、「わかりやすいこと」と「正しいこと」は共存しないと思っています。単純さと正しさ、というべきかな。この2つは絶対に両立しなくて、単純なものは正しくないし、正しいものは単純じゃない。

写真:わかりやすさと正しさの関係性について図解している。

対談中のメモ。

髙橋:確かに、私たちは取捨選択の過程で選ばれた情報にしか触れません。ただ一方で、削ぎ落とされたり、切り捨てられた物事もある。それらも事実なのに、知る機会が失われている……。だから表層的な情報を「正確である」と言い切るのは、少し違う感じもしますね。

長谷川:そうですね。なので、おそらくきちんと考えるとみんな、この本の著者である武田さんの主張に納得できるのではないかと思います。取捨選択の中で捨てられたものを意識せず、とにかく「わかりやすさ」を絶対的な軸や指標のようにありがたがってしまうとまずいわけです。情報を扱うことを生業にしている以上は、特にね。

髙橋:はい。ただ、デザイナーという立場で仕事をする以上、物事を「わかりやすくする」ことは責務の一つだと思います。インフォメーションアーキテクトの長谷川さんは、そのあたりのバランスの取り方についてどう考えていますか?

長谷川:そこに関しては僕もいまだに答えをもっていなくて、実はずっと悩みながら20年この仕事をやっています。ただ、自覚しているかしていないかは大きな違いだと思いますね。例えば、情報をうまく端的に・キャッチーにできると、つくり手としては「やった!」と満足してしまう。そうするとそのときに切り捨てたものや、その背景にある多くを伝えられていないことに自分でも気付かずに、それが「正しいことだ」と考えてしまいがちです。なので、どれだけうまく「わかりやすく」できたと思っても満足せずに疑いをもち続けるというか、「こんなに単純化して、わかりやすくなっていいんだっけ?」と揺り戻す、みたいなことをずっと意識し続ける必要があると思います。

髙橋:なるほど、良いバランスなんてないんですね。常に「わかりやすく」なったこと自体を疑い続けて、もっと違うアウトプットの形がないか模索する必要がある。それを繰り返すことで、デザインそのものの質や妥当性を上げていく。わかりやすさを疑い続けることは、良いデザインをつくることそのものなんですね。

長谷川:そうですね。

写真:長谷川が発言している様子。

3. 「わかった」快感に満足せず探究する姿勢をもつ

髙橋:日常的にわかりやすいものに触れていると、いざわかりにくいものに出合ったとき、それと向き合うことがストレスになる気がしています。私は、それがもったいないなと思っていて。

長谷川:もったいない、というと?

髙橋:例えば、書籍の中に「最近はオチがないトークがしにくい」という話や、伏線が回収されないまま終わったことでネットで叩かれた物語の話題がありました。私もすぐに理解できなかったり、区画整理されていないものに耐えきれなくなることがあり、このような風潮には共感できます。ただ、それは混沌としていたり、意味不明なものの中にある面白さを見落としてしまっている気もして、自分の感性まで単純化されているようで、寂しいなと思います。

長谷川:なるほどね。僕は髙橋さんがわかりやすいものを好む理由には「わかった快楽」みたいなものがあると思っています。

髙橋:「わかった快楽」?

長谷川:「わかる」とは何なのかと考えると、「自分の中で辻褄が合って気持ちがいい」みたいな感覚だと思っていて。腑に落ちたり、合点がいったりすると、その快楽が出てくるのではないでしょうか。

髙橋:確かに「理解できた!」と思うのは気持ちいいですね。

長谷川:そうだよね。だから、「わかりやすい」ものを求めるのは決して悪いことではなくて、自然な反応なんだと思います。ただ、メディアが発達した現代は情報が溢れているから、より「わかった快楽」を得やすい刺激的な情報、ゴシップ的なものやストーリー性が強いものもたくさん存在します。強い刺激には反射的に反応してしまいますが、何度も言う通り、それらは物事の全てを伝えているわけではありません。深く咀嚼や理解をせずに、それだけで「わかった気になってしまう」のはよくないわけです。

髙橋:確かに、刺激的な情報にはすぐに反応してしまいます。心当たりはありますね。物事を受け取るときには、自分は「わかりやすいもの」や刺激的なものに飛びついてはいないか、「わからないもの」をスルーしたり拒絶していないか、一度立ち止まってよく考えてみようと思います。

長谷川:そうですね、それは大事だと思います。また、「わかりやすいもの」には反射的に、「これは面白い」とか「これはけしからん」という反応になりやすいかなと思いますが、僕はそうではなくそこから一つ掘り下げてみるのがいいと思うんですよね。思索や悩みの道にどんどん入っていく。

髙橋:なるほど。第一印象やそのときのリアクションだけで止まらず、その先へ、さらに先へと潜り込んでいくのですね。

写真:髙橋が発言している様子。

4. 「理解」と長く付き合った先にひらかれる世界

髙橋:一つ掘り下げるとは、具体的にはどういうことでしょうか?そのときに得た情報だけで判断せず、そこで気になったことを調べたり、深掘りしていくということでしょうか。

長谷川:それもあると思うし、もう一つはそのテーマと「長く付き合う」ことも大切だと思います。例えば、本の中にも出ていたニュース番組の解説者ですが、彼の解説がすごく「わかった!」と思うとして、それは興味のきっかけに過ぎないんですよね。そこがやっと入り口。そこで少し自分なりに調べたり考えたり、少し先へ進んでみて、それをこの先もずっと長く続けてみる。

髙橋:なるほど……。私は、そのときに気になったことをすぐに調べて、それで満足してしまうことが多かったです。そこで終わりにせずに、数カ月後、数年後と、継続的に探求してみることで、より深い理解や、また変わった解釈が得られそうですね。

長谷川:もちろん、そこまで興味が湧かなかったものをずっと調べ続ける必要はないと思います。ただ今後の人生のどこかで、例えばそれが10年後とかでもよいですが、今とは変化した自分でもう一度本を読み返したり、メモを見返したりして触れてみたらどうでしょうか。何か小さな揺れ動きかもしれないし、大きな発見かもしれないし、でも必ず何か変化があると思うんですよ。

ずっと接点をもち続けなくてもいい、興味の度合いにアップダウンがあってもいいので、「わかりやすい」物事や少しでも興味の入り口に立った物事と長い時間軸で関わり続けてみると、自分自身を広げることにつながると思います。

写真:長谷川、髙橋が机を面して対話している様子。

さいごに

「わかりやすいものに反射的に反応しない」という長谷川さんの言葉が印象的でした。この本を読み「わかりやすさ」に対して抱く違和感をあらためて意識しましたが、その違和感も少し反射的な反応だったと思います。「わかりやすさ」への違和感とは、デザイナーとしても、人としても、もう少し長く付き合っていく必要がありそうです。

また、この記事の執筆に当たっても「わかりやすさ」と何度も向き合うことになりました。「この部分は正しいけど、読者にとってはつまらないだろうか?」「でもこの言い回しに変えたら、私の意図で事実を編集し過ぎだろうか?」など、いろいろ考えてまとまらないこともたくさんありました。

読む人にとってやさしく興味深い記事にするために、そこに「切り捨てたわかりにくさ」があることを、執筆者として意識し続けたいです。

[ 執筆者 ]

コンセントは、企業と伴走し活動を支えるデザイン会社です。
事業開発やコーポレートコミュニケーション支援、クリエイティブ開発を、戦略から実行まで一貫してお手伝いします。

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