行動経済学の活用と透明性

イノベーションのためのサービスデザイン[6]

  • 長谷川 敦士代表取締役社長/インフォメーションアーキテクト

※本記事は、一般社団法人 行政情報システム研究所発行の機関誌『行政&情報システム』2020年4月号に掲載の、長谷川敦士による連載企画「イノベーションのためのサービスデザイン」No.6「行動経済学の活用と透明性」からの転載です(発行元の一般社団法人 行政情報システム研究所より承諾を得て掲載しています)。

画像:Service Design for Innovation 6

1. 行政分野における行動経済学の活用

行政分野における行動経済学活用が盛んになっている。行動経済学を元にした行動洞察チーム(Behavioural Insights Team)いわゆるナッジユニットと呼ばれるような活動はここ数年で世界中に広まり、日本でも経済産業省によるMETIナッジユニット、環境省ナッジ・ユニットなどを始めとして活動が見られるようになってきた。

参考:METIナッジユニットを設置しました|経済産業省

参考:第1回日本版ナッジ・ユニット連絡会議を開催しました|環境省

行動経済学とは従来の合理的な人の行動モデルに対して「限定合理性」と呼ばれる実際の状況における人の行動を組み込んだモデルを用いた経済学のことを指す。行動経済学と呼ばれているが、経済というより心理学的な行動モデル自体を意味することも多い。行動経済学の代表的な知見としては、例えば、選択肢というものは多ければ多いほどよいと考えられがちであるが、実はあまり選択肢が多すぎると人は選ぶことをやめてしまうため適切な数の選択肢が求められるという「選択アーキテクチャ」、まったく関係のない直前に得た情報に次の思考が影響してしまうという「アンカリング(係留効果)」といったような考え方が挙げられる。

行動経済学はここ20年で研究・応用が進んだ分野であり、2002年にダニエル・カーネマン、2013年にロバート・シラー、そして2017年にリチャード・セイラーがノーベル経済学賞を取っている。特に、行動経済学の知見を用いて人の行動を誘導する方法はナッジ(Nudge)と呼ばれ、行政分野、ビジネスなどで活用されている(Nudgeとはひじで相手をそっと突くこと)。

有名なエピソードとしては、アムステルダムのスキポール空港において、男子トイレの床の清掃費削減のために、小便器の内側にハエの絵を描いたものがある。「人は的があると狙いたくなる」という小 用をたす男性の心理をついたこの戦略によって清掃費は8割も削減されたという。このようにナッジは低コストで効率よく人々の行動を変えるアプローチと認識されている。

別の観点では、ナッジを活用した施策はリバタリアン・パターナリズム的であるとも言われる。リバタリアン・パターナリズムとは、リバタリアン(Libertarian)=個人の自由に対して政府は介入すべきではないと主張する立場、とパターナリズム(Paternalism)=強い立場にあるものが弱い立場にあるもののためとして介入すること、という一見相反する考え方を組み合わせたもので、「個人の行動や選択の自由を阻害せず、よりよい方向へ誘導する」という姿勢を指す。ナッジも選択や行動自体を制約するのではなく、よりよい方向へ誘導するという意味でリバタリアン・パターナリズム的であるとされる。

しかしながらこれは、逆に言えば行動経済学に基づく施策は、施政者の都合のよい方向へ恣意的に誘導できるということを意味している。ナッジを提唱した前述のセイラーも、ナッジの悪用をスラッジ(Sludge:汚泥)と呼び戒めている。このようにナッジを活用する施策、というものには「上から目線」的な側面が常にあり、このことをいかに市民=生活者に伝えていくべきかという課題が存在している。

2. ナッジと倫理

図1は欧州各国における臓器提供意思表明率を示したものだ。グラフを見ると、デンマーク、オランダ、UK、ドイツの4カ国だけが、他の国々と比べて意思表明率が低いことがわかる。これはなんの違いによるものであろうか。答えは、意思表明の方法の違いである。より正確に言えば、意思表明の方法がオプトイン(提供意思があるときに意思表明を行う)なのか、オプトアウト(提供したくないときに意思表明を行う)なのかの違いとなる。言うまでもないが、意思表明率の低い4カ国がオプトイン方式、それ以外の国がオプトアウト方式となる。つまり明示的に臓器提供意思表明を行うことを課している国では提供率は低く、デフォルトは提供となっていて、提供を拒否したい人が意思表明することにしている国では提供率が高いという結果になっている。

図1:欧州での臓器提供意思表明率

図:オーストリア、ベルギー、フランス、ハンガリー、ポーランド、ポルトガルは臓器提供意思表明率がほぼ100%に近く、スウェーデンも85.9%の高い率を表している。これに対して、デンマーク4.25%、ドイツ12%、UK17.17%、オランダ27.5%。

出典:Johnson EJ,Daniel Goldstein, Do Defaults Save Lives?をもとに筆者が作成

これは行動経済学でいうところの「デフォルト効果」であり、つまり人は意思決定が難しいときに設定されている初期値に従ってしまうという効果によっている。臓器提供の意思表明は、自身の考え方はもとより家族なども関わる事項であり、簡単には決められないものである。そういった意思決定が難しい問題に対して多くの人は判断を留保し、「とりあえず初期値」という選択を取る。この結果が、この臓器提供意思のばらつきとなるのである。欧州各国でもちろん文化的な違いはあるだろうが、統一した意思表明方法であればここまで大きな差は出なかったであろうと考えられる。

臓器提供という重大な事項においても人はデフォルト値を選択してしまうという事実は、ナッジ=行動経済学的な施策は人の意思決定に対して大きな責任を負っていることを示している。つまり、ナッジをうまく使えば(=悪用すれば)、政治の意思決定や行動のコントロールに利用できてしまうということを示している。ナッジは世の中を「よい方向」に向かわせるために用いられるべきであるが、なにが「よい」のかは多様であり、主観的な要素が強い。

最近デザイン業界では、「Ethical Design(倫理的なデザイン)」として、いかにナッジによって本当に「よい」方向に導けるかという議論が行われている。しかしながら、倫理ですら主観の問題であることから、この問題は容易ではない。逆にユーザーに対して意図しない方向に誘導するようなユーザーインターフェイスデザインは「ダークパターン(Dark Pattern)」として課題視されている。政治システムなどにおいてのスラッジあるいはダークパターンの利用は注目されやすいために比較的発見もされやすいが、あまたあるオンラインサービスなどでは意図的ではないにせよダークパターンは数多く見受けられる。

ここで考えるべき観点は、サービス自体の透明性となる。ナッジにせよスラッジにせよ、そのしくみが公開されていれば、社会的な検証によってそのしくみは果たして妥当であったかどうかを判断することが可能となる。逆にそのしくみがブラックボックスの中にあれば、あるいはそのしくみが成立するに至った過程が非公開であれば、そのしくみを検証することはできず、ナッジ(あるいはスラッジ)は人知れず人々を誘導することになってしまう。

特にビジネスとしての利害関係や、施政者による意図が絡んできたとき、ナッジは簡単にスラッジとなる。これを防ぐのは社会的な検証でしかなく、そのためにはしくみの透明性しか方法はない。

3. ソーシャルインシュアランス Lemonade

Lemonadeという保険会社がある。同社は、米NYに拠点を置く損保会社で2015年に設立され、保険の業界において新しい価値観をもたらした会社として知られている(図2)。

図2:Lemonade Insurance Company

従来保険会社のビジネスは、顧客から集まった保険の掛け金のうち、支払われない部分が収益となっていた。これは逆に言えば、保険会社は顧客からの請求に応えるたびに利益を失っていくということを意味している。これは顧客と保険会社とは利益が相反しているということであり、一般的にも顧客からもそのように受け取られている。このため、保険加入者は自身の保険はちゃんと支払われていないのではないかと疑わざるを得ない状況となり、保険会社側も加入者が過大に請求するのではないかと疑わなければならない。

これに対してLemonadeのモデルは根本から大きく異なっている。Lemonadeでは、加入者が支払った保険料から一律20%がLemonade費用として差し引かれる。この残った費用が保険金として支払われることになるが、ユニークなのはもし保険金が支払われなかった場合、この分の費用は加入者が指定したチャリティ団体へ寄付されることである。保険加入者同士は選択した社会課題テーマごとにPeer(仲間)というグループを形成し、保険金もこのPeerごとに算出が行われる。20%の費用には同社の利益、保険金を補うための再保険などが含まれるが、この費用は保険業界としても低水準であるといえ、同社はチャットボットを活用して問い合わせコストを削減したり、保険料の算定にAIを活用したりすることでこの低水準を実現している。

このモデルにおいて保険加入者は、通常「せっかくかけたのだから保険金をもらわないと損だ」と考えるところを、「保険金をもらわずにすんだら寄付することができる」と考えるようになり、過大に保険金を請求することを抑止する効果が生まれる。また、前述のPeer間で保険金を抑制するための情報交換なども生まれてきているという。こういった振る舞いによって、保険加入者の振る舞いは規範的な方向へ向かい、そしてLemonadeとしても過剰な請求がなされるリスクが減少する。これはつまり、保険会社と保険加入者の利益を最大化する行動が同じ方向を向いているということとなる。

実はこのモデルは、行動経済学分野で著名なダン・アリエリーをCBO(Chief Behavioral Officer)として迎え入れてつくり上げられたモデルであり、周到に人の行動原理を考慮している。同社はこのモデルを「ソーシャルインシュアランス」と名付けている。このモデルは個々人の行動のインセンティブと、ビジネスが持続的に遂行されるような保険ビジネスのあり方とを総合的に捉えて実現していると言えるだろう。

このモデルの特徴的な点は、この行動経済学的な視点によって実現される保険モデルが、極めて透明性の高い形で保険加入者に示されているというところにある。行動経済学的なモデル、ナッジを活用したモデルというだけでは、最終的に企業側がずるをできてしまうような全体設計になってしまうことも起こりうる。例えずるにはならなかったとしても、ナッジを活用した施策というものは、ある意味、提供側と受け手側との情報差を用いた「だまし討ち」になってしまう可能性があり、もちろんこれが正しく使われなければ大きな問題であり、例え正しい施策であったとしても受け手側(生活者、顧客)から不満が出る可能性がある。例えば、顧客が解約が面倒でほぼ解約しないということがわかっているオプション契約を、加入時に初月無料だからといってあまり丁寧な説明を行わずにつける、といったような振る舞いはナッジを悪用した不誠実な「スラッジ」となる。

Lemonadeでは、企業側の手数料比率や保険金の支払い基準などのモデル全体をオープンにしており、そこには「だまし討ち」感はないだろう。このような、「企業などがある行動しかとれないような枠組み」を経済学では「コミットメント」と呼ぶ。Lemonadeではまさにこのコミットメントを可視化していることによって、保険加入者は自身の好ましいと考える行動と企業の振る舞いとが同じ方向を向いていることを理解することができることになる。そして、このコミットメントがきちんと開示されていることによって、このビジネスモデルの設計が人の善意を活用するものであることが、保険加入者にとっても納得感を高める方向へと寄与しているのである。

4. 行動経済学の活用と透明性

Lemonadeは行動経済学のモデルを活用して再構築された、企業と顧客の利益ベクトルを一致させている新しいビジネスモデルであり、かつそれが透明な形で開示されていることでさらに効果を高めていることを見てきた。Lemonadeは保険というビジネスであったが、一般の行政施策、行政サービスにおいても参考にすべき点がある。

まず第一に、行動経済学的観点、つまり限定合理性のなかで生きる人々の意思決定を踏まえた上で、事業主体と参加者、つまり市民との双方がメリットを得られるようなモデルを構築していくことが求められよう。これはなかなか難易度が高いものであるが、例えばUberやAirbnbが既存のタクシー業界、ホテル業界の延長からは生まれないように、なにか施策を検討する際には従来のモデルと切り離してゼロベースで考える必要があるだろう。

Lemonadeのビジネスがチャットボットによる対応や審査プロセスへのAI導入などによって効率化がなされているように、サービス立ち上げ時のコストはIT化、さまざまなマイクロサービスの誕生などによって初期、運用の双方で飛躍的に低下した。従来のモデルを意識せずに、生活者視点での価値とナッジの活用から新たにサービスを検討することでこういった新しいモデルを生み出せる可能性はある。

そして、そういった新しいモデルであるということに加えて、特にナッジの活用という側面があればなおのこと、モデル自体、そしてその議論の過程から透明性が求められるであろう。これまで見てきたように、ナッジには例えよい方向へ向かっていたとしても、対象者の無意識の行動に寄与して変化を促す効果がある。気づかれないうちに効果を及ぼしうるからこそ、なおのことこれまで以上に意思決定過程からの透明性が求められるであろう。またそのときは、当然ながら裏表なく、種明かしをする前提での設計が必要となる。

[ 執筆者 ]

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事業開発やコーポレートコミュニケーション支援、クリエイティブ開発を、戦略から実行まで一貫してお手伝いします。

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